雑記 ニーチェとウィトゲンシュタイン
ハイデガー『思惟とは何の謂いか』
「もっとも静かなもっとも内気な人間のひとりであったニーチェは、叫ばざるをえないという苦悩を耐え抜いた。」
ローティ「カヴェルと懐疑論」
「オースティンやライルとは違って、彼(ウィトゲンシュタイン)は観念の理論を捨て去らせてくれるだけではない。彼は、われわれの行う認識論の授業や、われわれの学科や、われわれの生活形式の持つ道徳的価値(moral value)という問題をも立てるのだ。われわれ哲学教授たちは、今世紀のもっとも偉大な著作家のひとりがわれわれの間に入って来て、われわれの習慣についてわれわれ自身は決して書かなかったであろう記述を残していってくれたという点で、幸運なのである。ウィトゲンシュタインは、彼がこうした努力の過程で保たなければならなかったつき合いに悩まされ、常にそれについて不平を言っていた。しかし彼はそれに耐え抜き、そして多くの注釈者たちの断固たる努力にもかかわらず「哲学的理論」や「哲学的問題の解決」を与えるものと解釈することができないような著作を生み出したのである。」
必要な人間になる
欲しいものがある。
それをあげたい人がいるとする。
「ほしい」と言う。
もらえる。
☆☆☆
欲しいものがある。
あげたい人がいるとする。
「ほしい」と言わない。
あげられない。
お互い不幸。
☆☆☆
「くれるかな」と言うことは、欲しがることではない。
「ほしい」と言う人は、もらえる。
☆☆☆
何かを欲しいと言う人間は、それをあげたい人にとっては必要な人間である。
必要な人間になるためには、もっと欲しがらなければならない。
自分の好きなものを。
ゲームの規則
年末年始、実家に帰らなかった。
「ゲームの規則(la regle de jeu)」という映画を見た。
☆☆☆
あらすじは以下のようなもの。
社交と恋愛に明け暮れる有閑階級のもとに、ある日アンドレという男が現れる。
アンドレは貴族の夫人であるクリスティーㇴを愛しているのだが、クリスティーヌはアンドレの愛を真に受け取ることができない。
あるパーティの夜、乱痴気騒ぎの中でアンドレは誤って銃で撃たれて死んでしまう。
貴族たちは、何事もなかったかのように館へ戻る…。
☆☆☆
貴族たちはとてもきらびやかに暮らしている。
自分たちもきらびやかに生きようと、愛人を作ったり、つかず離れずをしたりのとっかえひっかえの恋愛をする。
アンドレは違う。彼はとっかえひっかえの愛なんて間違っていると言う。
しかしクリスティーヌはそれがわからない。
アンドレはものごとには規則があるのだと主張する。
愛に生きることは、規則を守るということなのだと。
☆☆☆
貴族たちのきらびやかな館には、ただ一つだけが欠けていた。
人間味のある人間だけが。
だから貴族たちはアンドレを(故意と分からない形で)殺した。
本当に高貴であることはどういうことか忘れてしまったから。
☆☆☆
人間でいる、ということは、高貴でいる、ということだと思う。
大胆かつ繊細に
バイトをしない。
☆☆☆
金がないなあと思っていたので、今日一日ずっと日雇いバイトを入れるかどうか悩んでいた。
「やりたくないんならいいんじゃない」といわれたので、そうなんだよなあと思ってやっぱやめた。
バイトしたくないんだよなあ~
☆☆☆
バイトが嫌だ。
ミスをするのが怖い。
というか、生殺与奪を握られている気がする。
結果、ミスをしないことは上手くなった。
☆☆☆
ギャル「いうて金なくても実家から送られてきた米はあるんだし、死ぬことはないんじゃね?」
たしかにね~
☆☆☆
というのは、私にいつも起る例の神のお告げというものは、これまでの全生涯を通じて、いつも大変数しげくあらわれて、ごく瑣細なことについても、私の行おうとしていることが、当を得ていない場合には、反対したものなのです。
さびしいということ
万引き家族ーわれわれは真実を語るときにどんな表情をするべきかー
「万引き家族」を見た。
■なぜ生きることはこんなにも後ろめたいのか
古代の神学者アウグスティヌスは遊びほうけていた若いころのある思い出について語っている。彼はあるとき梨の実を仲間と一緒に盗んだのだ。のちに信仰に目覚めたにせよ、なぜ盗んだのかを彼は自らの半生を顧みた『告白』という書物で振り返る。曰く彼は「盗んだもの」によってではなく、「盗んだこと」によって楽しんでいた。そしてまた慌ててアウグスティヌスが付け加えているのが、「いやいや俺もさすがに一人では怖かったけど、友達もいたから安心して楽しくなっちゃって」という弁解である。古代の偉人の盗みの逸話にしてはリアルな体験談である。
本作「万引き家族」の冒頭では、リリーフランキー演じる父親である治が、息子の祥太と巧みに連携してスーパーで万引きを完遂する。彼らが万引きの前後で交わすひそかな合図は、スポーツの試合よろしくハイタッチのような連帯の証である。しかしながら彼らが万引きをするのは楽しいからではない。彼らが万引きをするのは生活していくためである。若いころのアウグスティヌスの武勇伝とリリーフランキーの演技を対比すると、今や治たちはうしろめたさの中でも人間が生きていけるかどうかを問う、綱渡りのような人生を送っている。
主人公たち家族が万引きをする際のスローガンは「店においてあるものは、まだ誰のものでもない」というものだ。この合言葉が嘘くさいなどとということなど周知の事実だ。となるとこれはむしろ、家族が貧困の中でもしたたかに生きるために自らの心に言い聞かせている言葉であろう。本当は彼らは常に誰かのことをーあるいは互いが互いをーだましながら生きていることを否応なく毎日毎日認知しているのである。
そんな暮らしだから治は、ネグレクトを受けている「ヒト」であるゆりを家へと連れ帰る際に自信が持てなくなってしまう。モノはいくらでも盗ってもいい、ではヒトは?ゆりに声をかけるリリーフランキーの演技を見れば、この映画の前半を見るための一つの仮説を立てることができる。彼らは常に、本当に自分たちが家族なのかどうか自信が持てないのだ。
■「普通の」家族をめぐる問題
彼らが本当に家族であるかどうか、あるいは家族という虚構を実現できるかどうかということについての試金石を、彼らの言葉の使い方に見出すことができるだろうか。たとえ虚構であれ、家族団欒の空気を作ることに彼らは成功しているだろうか。例えば妹の亜紀を演じる松岡茉優と姉の信代を演じる安藤サクラが言い争うシーン。生意気さをあげつらう信代に対し、亜紀は家族が公然の秘密にしていること、すなわち信代たちが祖母である初枝の年金を食いつぶしていることを指摘する。「おばあちゃんを食いものにしている」との亜紀の言葉を「食えるものなら食ってみな」と初枝は微笑みながら皮肉り、家族は笑いに包まれる。
実のところ、家族が家族であることなどどうやって証明できるだろうか?もちろん、戸籍を証明するなどということではない。何人かの人間が一つ屋根の下で暮らすための正当な理由が一体どうやったら見つかるだろうかということだ。このことを検討するにあたって次に考えたいのは、またもや亜紀が関わるシーン。いつ治は信代とセックスしているのかという彼女の質問に対して、彼は水臭くこう言う。「ここで繋がってっからよ」と答える。彼の答えを信じない亜紀に対して治が答えるセリフはこうだ。「俺たちゃ普通じゃねえからよ」。
このような他愛のないおしゃべりがこの映画の前半のストーリーを示しているのだとすると、明らかに後半の取調室のシーンは彼ら家族を本当のことを語るべき場所、隠していたことを暴露するべき場所に引きずりおろしている。本作に関してはこまごまとしたストーリーの記述など大したネタバレにはならない、ここではこの前半と後半を結び付ける一つの転換点について考察してみたい。
物語の中盤で描かれるのは子供と大人の対比だ。息子の祥太は物語中盤でおそらく小学校高学年にさしかかり、身体の変化も訪れるようになる。そして妹のゆりの歯が抜けたその朝に、初枝が亡くなる。ある理由から治たち大人は初枝を適切に葬り、弔うことができない。そしてこの事件による不和はのちにまだ幼い子供である祥太の中で一つの疑念として発露する。盗みを行うことは悪いことなのではないか?自分たちが盗んでいるモノは、本当は誰かのものなのではないか?いったい自分たちはどんな理由があって盗みをしているのだろうか?と。
主人公たち家族にスポットライトをあて、刑事が(あるいは私たち観客が)すべての理由を問いただすのは取調室においてである。この場面において明らかにされるのは、理由を求めるようになった子供たちに対して、大人たちが正当に答えるべきことを持たないという悲劇である。後ろめたい暮らしをなぜ子供にも求めさせたのかと問いただす刑事に対する治の返答のシーン、彼は「ほかに教えられることがなかったから」と答える。
■本当の家族に本当のことを話すこと
ここまでの文章でさんざんネタバレに近いストーリーの記述をしてきたが、鑑賞にあたってはこのことは問題にならないだろう。なぜならこの映画のカメラワークは、ストーリーに匹敵する映像体験を提供しているからだ。
私はこの作品を二回見た。この作品の英語字幕版で、初枝が海で遊ぶ家族を見ながら(すなわち亡くなる直前)「ありがとうございました」とつぶやいているとの字幕が出ていると聞いたからだ。二回目の鑑賞では私はこのときの樹木希林の口元を読み取ることができた。しかしながらもうひとつ、映画の最後で祥太が窓の外の治を見ながら「とうちゃん」という字幕が出ているという噂だからだ。正直に言えば、一回目の鑑賞からずっと私は、祥太の最後の表情を解釈しかねていた。いったい祥太は本当に言葉を発していたのだろうか。このシーンが問いかけるのはたぶん次のようなことだ。果たして私たちは、一つ大人の階段を上った祥太が発する家族としての声に耐えられるのだろうか。こう言い換えてもいい。目の前の相手を家族として認めるとき、私たちは自らの確信と言葉を結び付ける覚悟ができるだろうか?